また菩薩の身肉手足及び妻子を施して、無上道を求むるを見る。また菩薩の頭目身体を欣楽施与して、仏の智慧を求むるを見る
また菩薩の身肉手足及び妻子を施して、無上道を求むるを見る。また菩薩の頭目身体を欣楽施与(ごんぎょうせよ)して、仏の智慧を求むるを見る。
自ら利益(りえき)を得る自利(じり)と他人を利益(りやく)することが利他(りた)であり、この両者をもって満足させることが大乗菩薩の理想の姿である。布施とは物だけでなく、真理や安心を与えることも含まれる。この文では譬喩(ひゆ)として、「ある人々は自分の身や肉、手足、及び妻子を施してでも無上のさとりを求め、ある人々は自分の頭や目さえも与え」と、見返りを求めない究極の布施が説かれている。
『妙法蓮華経』序品第一
鳩摩羅什(くまらじゅう)が漢訳した『妙法蓮華経』(406年)。「最高の教え(法華)、白蓮華のような正しい教えを説いた経典」という意味があり、生あるものはすべて成仏できると説くところに、『法華経』が「諸経の王」と呼ばれる由縁がある。
仏教の教えにおいて、菩薩(ぼさつ)の行いは自らと他者の利益を追求することであり、その究極の姿は他者の幸せのために自己を犠牲にすることにある。ここで述べられているように、ある菩薩たちは自分の身体の一部や、さらに家族さえも布施の対象として捧げる覚悟を持ちながら、悟りへの道を求めて進んでいる。この行為は一切の見返りを求めることなく、無条件の慈悲と無上の知恵を追い求める姿勢を象徴しているのである。
『妙法蓮華経』においては、この究極の布施の精神が強調されている。この経典は、全ての生きとし生けるものが仏陀の覚りに到達できると説き、その深い教えを広めることを目指している。このために、経典は「諸経の王」と敬称され、その内容が非常に深遠であると考えられている。悟りとは、我々の日常の狭い枠を超えて、他者の苦しみも理解し、共に救いの道を歩むことにあるという理念が込められている。
ここでいう布施とは、物質的なものだけでなく、精神的な真理や平安を与えることも含まれている。たとえ身の一部や大切な家族を供養することが犠牲に感じるとしても、それ以上に深い理解と慈悲を持って教えを広める意志が尊重される。その姿はまさに、大乗菩薩の理想的な姿であり、他者のために己を捧げることで無限の幸福と覚りを具現化するのである。このようにして、菩薩は自己の利益だけでなく、他者の利益をも追求することで、真の悟りを目指して進んでいるのである。