一つとなるために-聖書の言葉で導かれる結束
(コリントの信徒への手紙一 12:12-18)
体は一つでも、多くの部分から成り、体のすべての部分は多くても、体は一つであるように、キリストの場合も同様です。
なぜなら、私たちは皆、ユダヤ人もギリシア人も、奴隷も自由人も、一つの霊によって一つの体となるために洗礼(バプテスマ)を受け、皆一つの霊を飲ませてもらったからです。
実際、体は一つの部分ではなく、多くの部分から成っています。
足が、「私は手ではないから、体の一部ではない」と言ったところで、体の一部でなくなるでしょうか。
耳が、「私は目ではないから、体の一部ではない」と言ったところで、体の一部でなくなるでしょうか。
もし体全体が目だったら、どこで聞きますか。もし全体が耳だったら、どこで嗅ぎますか。
そこで神は、御心のままに、体に一つ一つの部分を置かれたのです。
(コリントの信徒への手紙一 12:12-18) 『聖書 聖書協会共同訳』より引用
私たちの体は一つでありながら、無数の部分から成り立っています。この聖句は、キリストにあって私たちが一つに結ばれていることを教えています。ユダヤ人もギリシア人も、奴隷も自由人も、その違いを超えて一つの霊によって結ばれています。このバプテスマを通して、私たちは新たな命を受け、共に一つの体となったのです。
私たちの体の各部分が異なる機能を持つように、私たちもそれぞれ異なる役割を持っています。もし足が自分の役割を否定したら、手や耳が自らを低く見積もれば、それによって体が不完全になるわけではありません。すべての部分が互いに補完し合い、全体を形成しています。このように、神は私たち皆に独自の役割を与え、共にその役割を果たすよう導いています。
神が意図的にそれぞれの部分を配置したのは、私たちが共に助け合い、愛し合うためです。他者の役割を尊び、感謝し、共に一つの目標に向かって進むことが、私たちに与えられた使命です。この結束こそが、キリストの体である教会が成し遂げるべき姿といえます。
私たち一人ひとりがこの役割を果たし、心を一つにして進むとき、神の栄光は私たちを通して表されるでしょう。互いに理解し、支え合うことで、私たちは真の結束を実現できるのです。再びこの聖句を思い出し、私たちの一体性を強めていくことを心に留めたいと思います。