必ずいます神-生と死のすべては主のもの
(ローマの信徒への手紙 14:7-10)
私たちは誰一人、自分のために生きる人はなく、自分のために死ぬ人もいません。
生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死ぬのです。従って、生きるにしても、死ぬにしても、私たちは主のものです。
キリストが死に、そして生きたのは、死んだ人にも生きている人にも主となられるためです。
それなのに、なぜあなたは、きょうだいを裁くのですか。また、なぜ、きょうだいを軽んじるのですか。私たちは皆、神の裁きの座の前に立つのです。
(ローマの信徒への手紙 14:7-10) 『聖書 聖書協会共同訳』より引用
私たちは誰一人、自分だけのために生きることはできず、自らのために死ぬこともありません。主が私たちに与えてくださる命は、彼のために生き、彼のために死ぬという目的を持っています。私たちが生きるとき、私たちの心は主に向かい、私たちが死ぬときにも、主のもとに帰るのです。だからこそ、私たちは生きるにしても死ぬにしても、常に主に属する存在であることを忘れないでください。
キリストは私たちのために死に、そして再び生きました。それは、死んだ者にも生きている者にも、主としての権威を持ってくださるためです。この聖句は、私たちの生活や人間関係において大きな意味を持っています。なぜ、私たちは互いを裁き、軽んじるのでしょうか。私たちの違いはあれど、皆が神の前に立つ時が来るのです。その時、他者を裁くことがどれほど無意味であるかを思い知らされるでしょう。
私たちの命は、他者との関わりの中で育まれます。だからこそ、互いに愛し合い、受け入れ合うことが求められています。聖書は私たちに、互いを思いやり、きょうだいを尊重することの重要性を教えています。どんなに小さなことでも、私たちがお互いを思いやり、温かい心を持つことが、主のご意志を果たすための第一歩なのです。神の裁きの座の前に立つ日を考えるとき、私たちが選ぶべき道は、一つです。それは、愛と和解の道です。共に生き、共に支え合うその姿が、主の栄光を表すのです。