身を献げる真意-聖書の言葉に触れて
(ヘブライ人への手紙 10:1-7)
律法には、やがて来る良いことの影があるばかりで、そのものの実体はありません。ですから、年ごとに絶えず献げられる同じいけにえによって、神に近づく人たちを完全な者にすることはできないのです。
もしできたとするなら、礼拝する者たちは一度清められた以上、もはや罪の自覚がなくなるのですから、献げ物をすることは中止されたはずです。
ところが実際は、いけにえによって年ごとに罪の記憶がよみがえって来るのです。
雄牛や雄山羊の血は、罪を取り去ることができないからです。
それで、キリストは世に来て、次のように言われたのです。
「いけにえも供え物も、あなたは望まず
私のために、体を備えてくださった。
焼き尽くすいけにえも清めのいけにえも
あなたは喜ばれなかった。
その時、私は言いました。
『御覧ください。私は来ました。
巻物の書に私について書いてあるとおり
神よ、御心を行うために。』」
(ヘブライ人への手紙 10:1-7) 『聖書 聖書協会共同訳』より引用
私たちの歩む道に、古い律法の影があります。その影は、未来に来る良きものを指し示していますが、その真実の実体はキリストにこそ存在します。毎年、絶え間なく捧げられるいけにえは、私たちを完璧にすることはできません。もしそれが可能であったなら、私たちは一度清められたからには、罪の意識を持つことはなかったでしょう。しかし実際には、いけにえが捧げられるたびに、私たちの心には罪の記憶が蘇ります。
律法が要求したいけにえ、雄牛や雄山羊の血では、罪を完全に取り去ることはできませんでした。このため、主なるキリストは私たちのために来られ、「いけにえも供え物も、あなたは望まず」とおっしゃいました。神は、偶像的ないけにえに喜ばれるのではなく、私たちの心と体の献身を求めておられます。
主は、私たち一人一人に向けて「御覧ください。私は来ました。巻物の書に私について書いてあるとおり、神よ、御心を行うために」との宣言をなさいます。この言葉は、私たちが真に神の心を知り、実践していくための導きです。私たちの献身は、ただの儀式や習慣ではなく、神との深い関係の表れであり、彼の御心に応えるものでなければなりません。真実のいけにえは、私たち自身の生き方と、神への従順に他なりません。私たちの体を以て献げる生き方が、神の栄光を表す道なのです。