イエスの神聖なる言葉と信仰の力を考える
(ヨハネによる福音書 10:31-39)
ユダヤ人たちは、イエスを石で打ち殺そうとして、また石を取り上げた。
イエスは言われた。「私は、父から出た多くの善い業をあなたがたに示してきた。そのどの業のために、石で打ち殺そうとするのか。」
ユダヤ人たちは答えた。「善い業のことで、石で打ち殺すのではない。神を冒瀆したからだ。あなたは、人間なのに、自分を神としているからだ。」
イエスは言われた。「あなたがたの律法に、『私は言った。あなたがたは神々である』と書いてあるではないか。
神の言葉を託された人たちが、『神々』と言われ、そして、聖書が廃れることがないならば、
父が聖なる者とし、世にお遣わしになった私が、『私は神の子である』と言ったからとて、どうして『神を冒瀆している』と言うのか。
もし、私が父の業を行っていないのであれば、私を信じなくてもよい。
しかし、行っているのであれば、私を信じなくても、その業を信じなさい。そうすれば、父が私の内におられ、私が父の内にいることを、あなたがたは知り、また悟るだろう。」
そこで、ユダヤ人たちはまたイエスを捕らえようとしたが、イエスは彼らの手を逃れて、去って行かれた。
(ヨハネによる福音書 10:31-39) 『聖書 聖書協会共同訳』より引用
ユダヤ人たちは、イエスを石で打とうとしましたが、イエスは冷静に答えられました。「私は、父からの多くの善い業を示してきました。その業のどれが、あなたがたを私を石で打たせる理由なのでしょうか。」
ユダヤ人たちは、「あなたが神を冒涜しているからだ」と答えます。彼らはイエスが自らを神と名乗ることに対して怒りを感じていました。しかし、イエスは言います。「律法には『あなたがたは神々である』と書かれています。神の言葉を受けた者が神々と呼ばれるのであれば、私が『私は神の子である』と言ったからといって、どうして悪だとされる必要があるのでしょうか?」
彼は続けて、「私が父の業を行っていないなら、私を信じる必要はありません。しかし、私が父の業を行っているのであれば、その業を信じなさい。そうすれば、あなたがたは、父が私の内におられ、私が父の内にいることを知るでしょう。」
この対話は、イエスが自己の神聖性を主張するだけでなく、彼の行いが与える深い信仰の意義を示しています。ユダヤ人たちは捕らえようとしましたが、イエスはその場を離れ、彼らの手を逃れました。この出来事は、イエスの神聖な存在を示し、信じる者にとって大きな励ましとなります。私たちもまた、彼の業と聖句を通して、真の信仰を育むことができるのです。信じること、そして業を通じて神を知ることが、私たちにとって大きな恵みであり、心の糧となるでしょう。