私たちの地上の住まいである幕屋は壊れても、神から与えられる建物があることを、私たちは知っています。人の手で造られたもので

私たちの地上の住まいである幕屋は壊れても、神から与えられる建物があることを、私たちは知っています。人の手で造られたものではない天にある永遠の住まいです。 私たちは、天から与えられる住みかを上に着たいと切に望みながら、この地上の幕屋にあって呻いています。 それを着たなら、裸ではないことになります。 この幕屋に住む私たちは重荷を負って呻いています。それは、この幕屋を脱ぎたいからではなく、死ぬべきものが命に吞み込まれてしまうために、天からの住まいを上に着たいからです。 私たちをこのことに適う者としてくださったのは、神です。神は、その保証として霊を与えてくださったのです。 それで、私たちはいつも安心しています。もっとも、この体を住みかとしている間は、主から離れた身であることも知っています。 というのは、私たちは、直接見える姿によらず、信仰によって歩んでいるからです。 それで、私たちは安心していますが、願わくは、この体という住みかから離れて、主のもとに住みたいと思っています。 だから、体を住みかとしていようと、体を離れていようと、ひたすら主に喜ばれる者でありたい。 私たちは皆、キリストの裁きの座に出てすべてが明らかにされ、善であれ悪であれ、めいめい体を住みかとしていたときに行った仕業に応じて、報いを受けなければならないからです。

神の子の名を信じるあなたがたに、これらのことを書いたのは、あなたがたが永遠の命を持っていることを知ってほしいからです。

神の子の名を信じるあなたがたに、これらのことを書いたのは、あなたがたが永遠の命を持っていることを知ってほしいからです。 何事でも神の御心に適うことを願うなら、神は聞いてくださる。これこそ私たちが神に抱いている確信です。 私たちは、願い事を何でも聞いてくださると知れば、神に願ったことは、すでにかなえられたと知るのです。 もし誰かが、死に至らない罪を犯しているきょうだいを見たら、神に願いなさい。そうすれば、神は死に至らない罪を犯した人に命をお与えになります。しかし、死に至る罪もあります。これについては、願い求めなさいとは言いません。 不正はすべて罪ですが、死に至らない罪があります。 神から生まれた人は誰も罪を犯さないことを、私たちは知っています。神から生まれた人は自分を守り、悪い者がその人に触れることはありません。 私たちは神から出た者であり、全世界は悪い者の支配下にあることを知っています。 しかし、神の子が来て、真実な方を知る力を私たちに与えてくださったことを知っています。私たちは、真実な方の内に、その御子イエス・キリストの内にいるのです。この方こそ、真実の神であり、永遠の命です。 子たちよ、偶像から身を守りなさい。

私には、すべてのことが許されています。しかし、すべてのことが益になるわけではありません。私には、すべてのことが許されてい

私には、すべてのことが許されています。しかし、すべてのことが益になるわけではありません。私には、すべてのことが許されています。しかし、私は何事にも支配されはしません。 食物は腹のため、腹は食物のためにありますが、神はそのいずれをも無効にされます。体は淫らな行いのためではなく、主のためにあり、主は体のためにおられるのです。 神は、主を復活させ、また、その力によって私たちをも復活させてくださいます。 あなたがたは、自分の体がキリストの体の一部だとは知らないのですか。私がキリストの体の一部を取って、娼婦の体の一部にしたりするでしょうか。決してそんなことはない。 娼婦と交わる者は、その女と一つの体となる、ということを知らないのですか。「二人は一体となる」と言われています。 しかし、主と交わる者は、主と一つの霊となるのです。 淫らな行いを避けなさい。人が犯す罪はすべて体の外にあります。しかし、淫らな行いをする者は、自分の体に対して罪を犯すのです。 知らないのですか。あなたがたの体は、神からいただいた聖霊が宿ってくださる神殿であり、あなたがたはもはや自分自身のものではないのです。 あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。だから、自分の体で神の栄光を現しなさい。

「あなたがたが私を愛しているならば、私の戒めを守るはずである。

私は父にお願いしよう。父はもうひとりの弁護者を遣わして

「あなたがたが私を愛しているならば、私の戒めを守るはずである。 私は父にお願いしよう。父はもうひとりの弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。 この方は、真理の霊である。世は、この霊を見ようとも知ろうともしないので、それを受けることができない。しかし、あなたがたは、この霊を知っている。この霊があなたがたのもとにおり、これからも、あなたがたの内にいるからである。 私は、あなたがたをみなしごにはしておかない。あなたがたのところに戻って来る。 しばらくすると、世はもう私を見なくなるが、あなたがたは私を見る。私が生きているので、あなたがたも生きることになる。 かの日には、私が父の内におり、あなたがたが私の内におり、私があなたがたの内にいることが、あなたがたに分かる。 私の戒めを受け入れ、それを守る人は、私を愛する者である。私を愛する人は、私の父に愛される。私もその人を愛して、その人に私自身を現す。」 イスカリオテでないほうのユダが、イエスに言った。「主よ、私たちにはご自分を現そうとなさるのに、世にはそうなさらないのは、なぜでしょうか。」 イエスは答えて言われた。「私を愛する人は、私の言葉を守る。私の父はその人を愛され、父と私とはその人のところに行き、一緒に住む。 私を愛さない者は、私の言葉を守らない。あなたがたが聞いている言葉は私のものではなく、私をお遣わしになった父のものである。

さて、イエスは通りすがりに、生まれつき目の見えない人を見かけられた。

弟子たちがイエスに尋ねた。「先生、この人が生まれ

さて、イエスは通りすがりに、生まれつき目の見えない人を見かけられた。 弟子たちがイエスに尋ねた。「先生、この人が生まれつき目が見えないのは、誰が罪を犯したからですか。本人ですか。それとも両親ですか。」 イエスはお答えになった。「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。 私たちは、私をお遣わしになった方の業を、昼の間に行わねばならない。誰も働くことのできない夜が来る。 私は、世にいる間、世の光である。」 こう言ってから、イエスは地面に唾をし、唾で土をこねてその人の目にお塗りになった。 そして、「シロアム――『遣わされた者』という意味――の池に行って洗いなさい」と言われた。そこで、彼は行って洗い、見えるようになって、帰って来た。 近所の人々や、彼が物乞いをしていたのを前に見ていた人々が、「これは、座って物乞いをしていた人ではないか」と言った。 「その人だ」と言う者もいれば、「いや違う。似ているだけだ」と言う者もいた。本人は、「私がそうです」と言った。 そこで人々が、「では、お前の目はどのようにして開いたのか」と言うと、 彼は答えた。「イエスという方が、土をこねて私の目に塗り、『シロアムに行って洗いなさい』と言われました。そこで、行って洗ったら、見えるようになったのです。」 人々が「その人はどこにいるのか」と言うと、彼は「知りません」と言った。

すると、ある律法の専門家が立ち上がり、イエスを試そうとして言った。「先生、何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるでし

すると、ある律法の専門家が立ち上がり、イエスを試そうとして言った。「先生、何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか。」 イエスは言われた。「律法には何と書いてあるか。あなたはそれをどう読んでいるか。」 彼は答えた。「『心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさい』とあります。」 イエスは言われた。「正しい答えだ。それを実行しなさい。そうすれば命が得られる。」 しかし、彼は自分を正当化しようとして、「では、私の隣人とは誰ですか」と言った。 イエスはお答えになった。「ある人がエルサレムからエリコへ下って行く途中、追い剝ぎに襲われた。追い剝ぎたちはその人の服を剝ぎ取り、殴りつけ、瀕死の状態にして逃げ去った。 ある祭司がたまたまその道を下って来たが、その人を見ると、反対側を通って行った。 同じように、レビ人もその場所にやって来たが、その人を見ると、反対側を通って行った。 ところが、旅をしていたあるサマリア人は、その場所に来ると、その人を見て気の毒に思い、 近寄って傷にオリーブ油とぶどう酒を注ぎ、包帯をして、自分の家畜に乗せ、宿屋に連れて行って介抱した。 そして、翌日になると、デナリオン銀貨二枚を取り出し、宿屋の主人に渡して言った。『この人を介抱してください。費用がもっとかかったら、帰りがけに払います。』 この三人の中で、誰が追い剝ぎに襲われた人の隣人になったと思うか。」 律法の専門家は言った。「その人に憐れみをかけた人です。」イエスは言われた。「行って、あなたも同じようにしなさい。」

春の雨の季節には、主に雨を求めよ。

主は雷雲をもたらし

人々に豊かな雨を与え

すべての人に野の草を与えられる。

春の雨の季節には、主に雨を求めよ。 主は雷雲をもたらし 人々に豊かな雨を与え すべての人に野の草を与えられる。 テラフィムは悪を語り 占い師は偽りを幻に見て 空しい夢を語り、無益な慰めを与える。 それゆえ、人々は羊のようにさまよい 牧者がいないので、苦しむ。 私の怒りは牧者の上に燃え 私は指導者たちを罰する。 万軍の主はご自分の群れであるユダの家を顧み 彼らを戦場における輝かしい軍馬のようにされる。 彼らから隅の石が 彼らから天幕の杭が 彼らから戦いの弓が 彼らからすべての指揮者が共に出る。 彼らは戦場で路上の泥を踏みつけ 勇士のようになって戦う。 主が彼らと共におられるからである。 彼らは馬に乗る者たちを恥じ入らせる。 私はユダの家を強め ヨセフの家を救う。 私は彼らを憐れむゆえに連れ戻す。 彼らは私が退けなかった者のようになる。 私は主、彼らの神であって 彼らに答えるからだ。 エフライムは勇士のようになり その心はぶどう酒を飲んだように喜ぶ。 その子どもたちはそれを見て喜び 心は主によって喜び躍る。 私が彼らを贖ったので 口笛を吹いて集める。 彼らはかつてのように多くなる。 私は彼らをもろもろの民の間に散らしたが 彼らは遠い国々で私を思い起こし その子らと共に生き長らえて、帰って来る。 私は彼らをエジプトの地から帰らせ アッシリアから呼び集め ギルアドの地とレバノンに連れて行く。 だが、そこも彼らには十分ではなくなる。 彼らは苦しみの海を渡り 海では波を打ち ナイルの谷をすべて干上がらせる。 アッシリアの誇りは地に落とされ エジプトの杖は離れ去る。 私は主によって彼らを強め 彼らは主の名によって歩む――主の仰せ。

では、何と言うべきでしょうか。恵みが増すようにと、罪にとどまるべきだろうか。

決してそうではない。罪に対して死んだ私た

では、何と言うべきでしょうか。恵みが増すようにと、罪にとどまるべきだろうか。 決してそうではない。罪に対して死んだ私たちが、どうして、なおも罪の中に生きることができるでしょう。 それとも、あなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスにあずかる洗礼(バプテスマ)を受けた私たちは皆、キリストの死にあずかる洗礼(バプテスマ)を受けたのです。 私たちは、洗礼(バプテスマ)によってキリストと共に葬られ、その死にあずかる者となりました。それは、キリストが父の栄光によって死者の中から復活させられたように、私たちも新しい命に生きるためです。 私たちがキリストの死と同じ状態になったとすれば、復活についても同じ状態になるでしょう。 私たちの内の古い人がキリストと共に十字架につけられたのは、罪の体が無力にされて、私たちがもはや罪の奴隷にならないためであるということを、私たちは知っています。 死んだ者は罪から解放されているからです。 私たちは、キリストと共に死んだのなら、キリストと共に生きることにもなると信じます。 そして、死者の中から復活させられたキリストはもはや死ぬことがない、と知っています。死は、もはやキリストを支配しません。 キリストが死なれたのは、ただ一度罪に対して死なれたのであり、生きておられるのは、神に対して生きておられるのです。 このように、あなたがたも、自分は罪に対しては死んだ者であり、神に対してはキリスト・イエスにあって生きている者だと考えなさい。 ですから、あなたがたの死ぬべき体を罪に支配させて、体の欲望に従うようなことがあってはなりません。 また、あなたがたの五体を不義のための道具として罪に献げてはなりません。かえって、自分自身を死者の中から生かされた者として神に献げ、自分の五体を義のための道具として神に献げなさい。 罪があなたがたを支配することはありません。あなたがたは律法の下ではなく、恵みの下にいるからです。

このようなわけで、一人の人によって罪が世に入り、罪によって死が入り込んだように、すべての人に死が及んだのです。すべての人

このようなわけで、一人の人によって罪が世に入り、罪によって死が入り込んだように、すべての人に死が及んだのです。すべての人が罪を犯したからです。 確かに、律法が与えられる前にも罪は世にあったが、律法がなければ、罪は罪と認められません。 しかし、アダムからモーセまでの間にも、アダムの違反と同じような罪を犯さなかった人の上にさえ、死は支配しました。このアダムは来るべき方の雛型です。 しかし、恵みの賜物は過ちの場合とは異なります。一人の過ちによって多くの人が死ぬことになったとすれば、なおさら、神の恵みと一人の人イエス・キリストの恵みによる賜物とは、多くの人に満ち溢れたのです。 この賜物は、一人の犯した罪の結果とは異なります。裁きの場合は、一つの過ちであっても、罪に定められますが、恵みの場合は、多くの過ちがあっても、義と認められるからです。 一人の過ちによって、その一人を通して死が支配するようになったとすれば、なおさら、恵みと義の賜物とを豊かに受けている人たちは、一人の人イエス・キリストを通して、命にあって支配するでしょう。 そこで、一人の過ちによってすべての人が罪に定められたように、一人の正しい行為によって、すべての人が義とされて命を得ることになったのです。 一人の人の不従順によって多くの人が罪人とされたように、一人の従順によって多くの人が正しい者とされるのです。 律法が入り込んで来たのは、過ちが増し加わるためでした。しかし、罪が増したところには、恵みはなおいっそう満ち溢れました。 こうして、罪が死によって支配したように、恵みも義によって支配し、私たちの主イエス・キリストを通して永遠の命へと導くのです。

このように、私たちは信仰によって義とされたのだから、私たちの主イエス・キリストによって神との間に平和を得ています。

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このように、私たちは信仰によって義とされたのだから、私たちの主イエス・キリストによって神との間に平和を得ています。 このキリストのお陰で、今の恵みに信仰によって導き入れられ、神の栄光にあずかる希望を誇りにしています。 そればかりでなく、苦難をも誇りとしています。苦難が忍耐を生み、 忍耐が品格を、品格が希望を生むことを知っているからです。 この希望が失望に終わることはありません。私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。 キリストは、私たちがまだ弱かった頃、定められた時に、不敬虔な者のために死んでくださいました。 正しい人のために死ぬ者はほとんどいません。善い人のためなら、死ぬ者もいるかもしれません。 しかし、私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対する愛を示されました。 それで今や、私たちはキリストの血によって義とされたのですから、キリストによって神の怒りから救われるのは、なおさらのことです。 敵であったときでさえ、御子の死によって神と和解させていただいたのであれば、和解させていただいた今は、御子の命によって救われるのはなおさらです。 それだけでなく、私たちの主イエス・キリストによって、私たちは神を誇りとしています。このキリストを通して、今や和解させていただいたからです。

人の子よ、主なる神はこう言われる。ありとあらゆる鳥と野の獣に言え。来て集まれ。私がイスラエルの山々でお前たちのために屠っ

人の子よ、主なる神はこう言われる。ありとあらゆる鳥と野の獣に言え。来て集まれ。私がイスラエルの山々でお前たちのために屠った私の大いなるいけにえのところに周囲から集まれ。肉を食い、血を飲め。 勇士たちの肉を食い、地の指導者たちの血を飲め。それは雄羊、小羊、雄山羊、雄牛であり、すべてバシャンの肥えた家畜である。 私がお前たちのために屠ったいけにえから、飽きるまで脂肪を食べ、酔いしれるまで血を飲むがよい。 お前たちは私の食卓で、馬と乗り手、勇士やすべての戦士を飽きるほど食べる――主なる神の仰せ。 私はわが栄光を諸国民の中に現す。諸国民は皆、私が行った裁きと、彼らの中に置いたわが手を見る。 その日から後、イスラエルの家は私が主、彼らの神であることを知るようになる。 諸国民は、イスラエルの家がその過ちのゆえに捕囚となり、私に対して背信の罪を犯したために、私が彼らから顔を隠したことを知るようになる。私が彼らを苦しめる者の手に渡したため、彼らは皆、剣に倒れたのだ。 私は、彼らの汚れと背きに応じて彼らを扱い、私の顔を彼らから隠した。 それゆえ、主なる神はこう言われる。今や私はヤコブの繁栄を回復させ、イスラエルの家すべてを憐れみ、わが聖なる名のために妬みを起こす。 彼らが自分の土地に安らかに住み、脅かす者がいなくなるとき、自分の恥辱と私に対して犯したすべての背信の罪を負う。 私が彼らをもろもろの民の中から帰らせ、敵の地から集めるとき、私は多くの国民の前で、彼らを通して自らが聖なる者であることを示す。 こうして私は、彼らを諸国民の間に捕囚として送ったが、彼らを自分の土地に集めるとき、彼らは私が主、彼らの神であることを知るようになる。私はもはや彼らの一人をもそこに残さない。 私は二度と彼らから顔を隠さず、わが霊をイスラエルの家に注ぐ――主なる神の仰せ。」

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