しかしキリストは、すでに実現している恵みの大祭司として来られました。人の手で造られたのではない、すなわち、この世のものではない、もっと大きく、もっと完全な幕屋を通り、
雄山羊や若い雄牛の血によってではなく、ご自身の血によってただ一度聖所に入り、永遠の贖いを成し遂げられたのです。
雄山羊や雄牛の血、また雌牛の灰が、汚れた者たちに振りかけられて、彼らを聖別し、その身を清めるとすれば、
まして、永遠の霊によってご自身を傷のない者として神に献げられたキリストの血は、私たちの良心を死んだ行いから清め、生ける神に仕える者としないでしょうか。
こういうわけで、キリストは新しい契約の仲介者なのです。それは、最初の契約の下で犯された違反の贖いとして、キリストが死んでくださった結果、召された者たちが、約束された永遠の財産を受けるためです。
というのは、遺言の場合、遺言者の死が条件です。
遺言は人が死んで初めて有効になるのであって、遺言者が生きている間は効力がありません。
だから、最初の契約も、血が流されずに成立したのではありません。
すなわち、モーセは、律法に従ってすべての戒めを民全体に告げたとき、水と深紅の羊毛とヒソプと共に、若い雄牛と雄山羊の血を取って、契約の書そのものと民全体とに振りかけ、
こう言いました。「これは、神があなたがたに命じられた契約の血である。」
また彼は、幕屋と礼拝に用いるあらゆる器具にも同様に血を振りかけました。
こうして、律法によれば、ほとんどすべてのものが血で清められます。血を流すことなしには赦しはありえないのです。