主の受難とユダの裏切りが示す聖句の真意
(マルコによる福音書 14:43-50)
そしてすぐ、イエスがまだ話しておられるうちに、十二人の一人であるユダが現れた。祭司長、律法学者、長老たちの遣わした群衆も、剣や棒を持って一緒に来た。
イエスを裏切ろうとしていたユダは、「私が接吻するのが、その人だ。捕まえて、逃がさないように連れて行け」と、前もって合図を決めていた。
ユダは、やって来るとすぐにイエスに近寄り、「先生」と言って接吻した。
人々は、イエスに手をかけて捕らえた。
そばに立っていた者の一人が、剣を抜いて大祭司の僕に打ちかかり、片方の耳を切り落とした。
そこで、イエスは彼らに言われた。「まるで強盗にでも向かうように、剣や棒を持って捕らえに来たのか。
私は毎日、神殿の境内で一緒にいて教えていたのに、あなたがたは私を捕らえなかった。しかし、これは聖書の言葉が実現するためである。」
弟子たちは皆、イエスを見捨てて逃げてしまった。
(マルコによる福音書 14:43-50) 『聖書 聖書協会共同訳』より引用
ここに、イエス・キリストの受難が語られます。ユダの裏切りは、信じられないほどの痛みを伴う出来事です。彼は、主を裏切ることで何を得ようとしたのでしょうか。全ての人々の前で、「私が接吻するのが、その人だ。捕まえて、逃がさないように連れて行け」と言った時、ユダの心にはどんな葛藤があったのか。彼の行動は、私たちにとって深い問いかけをもたらします。
イエスは、「まるで強盗にでも向かうように、剣や棒を持って捕らえに来たのか。私は毎日、神殿の境内で一緒にいて教えていたのに」と語ります。この言葉には、イエスがどれほど無垢であり、また人々への愛に満ちていたのかが示されています。ユダの行動とは裏腹に、イエスは怒りや復讐の感情を抱かず、むしろ聖書の言葉が実現するための道を選びました。
この受難の瞬間に、弟子たちは皆イエスを見捨てて逃げてしまいましたが、私たちはこの物語を通じて愛と犠牲について深く考えさせられます。裏切りに対して、さらなる愛をもって応えたイエスの姿勢は、私たちの生き方において、他者を許し、愛することの大切さを教えてくれます。どんなに困難な状況にあっても、私たちが選ぶべきは、常に愛であり、信仰であることを思い出させてくれます。