十字架の下で魂を渇き求める-詩編の聖句から学ぶ
(詩編 42:2-6 [42:1-5])
鹿が涸れ谷で水をあえぎ求めるように
神よ、私の魂はあなたをあえぎ求める。
神に、生ける神に私の魂は渇く。
いつ御前に出て、神の御顔を仰げるのか。
昼も夜も、私は涙を食物とする。
人は日夜私に言う
「あなたの神はどこにいるのか」と。
私は祭りに集う人の群れと共に進み
喜びと感謝の声の中、彼らを神の家へと導いた。
それらを思い起こして、私の魂を注ぎ出す。
私の魂よ
なぜ打ち沈むのか、なぜ呻くのか。
神を待ち望め。
私はなお、神をほめたたえる
「御顔こそ、わが救い」と。
(詩編 42:2-6 [42:1-5]) 『聖書 聖書協会共同訳』より引用
私たちの魂は、神という生ける水を求めて渇いています。詩編42章の言葉に「鹿が涸れ谷で水をあえぎ求めるように、神よ、私の魂はあなたをあえぎ求める」と示されています。この渇きは、神へ向かう切なる思いを表しています。神を求めることは、私たちの存在の本質であり、私たちの内なる声です。
神に向かう渇望の中で、私たちは時折、孤独や悲しみに心を打たれます。昼も夜も涙をもって過ごすことがあるでしょう。しかし、その中でも私たちは、自らの魂を振り返り、なぜ打ち沈んでいるのかを問う必要があります。「神を待ち望め」と、自らに語りかけるのです。
神との関係は祭りに例えられ、私たちが喜びと感謝の声を上げる場であることを思い起こさせます。仲間たちが神の家へと導いてくれる中で、私たちは共に神を礼拝し、その御顔を仰ぐ恵みを享けます。
神への信仰が試されるとき、「あなたの神はどこにいるのか」との問いが私たちを襲うこともあります。しかしその問いに怯えることなく、再び神をほめたたえ励ますのです。「御顔こそ、わが救い」と心を一つにして唱えることで、私たちの内に新たな力を与えられます。
この詩編の言葉は、私たちが途方に暮れる時も、神との希望を忘れず、渇き求め続ける姿勢を示しています。どうか、神を持ち望み続け、私たちの魂に流れる生ける水を求めて歩み続けることができますように。