それでは、善いものが私に死をもたらすものとなったのでしょうか。決してそうではない。罪は罪として現れるために、善いものによ

それでは、善いものが私に死をもたらすものとなったのでしょうか。決してそうではない。罪は罪として現れるために、善いものによって私に死をもたらしました。こうして、罪は戒めによってますます罪深いものとなりました。 私たちは、律法が霊的なものであると知っています。しかし、私は肉の人であって、罪の下に売られています。 私は、自分のしていることが分かりません。自分が望むことを行わず、かえって憎んでいることをしているからです。 もし、望まないことをしているとすれば、律法を善いものとして認めているわけです。 ですから、それを行っているのは、もはや私ではなく、私の中に住んでいる罪なのです。 私は、自分の内には、つまり私の肉には、善が住んでいないことを知っています。善をなそうという意志はあっても、実際には行わないからです。 私は自分の望む善は行わず、望まない悪を行っています。 自分が望まないことをしているとすれば、それをしているのは、もはや私ではなく、私の中に住んでいる罪なのです。 それで、善をなそうと思う自分に、いつも悪が存在するという法則に気付きます。 内なる人としては神の律法を喜んでいますが、 私の五体には異なる法則があって、心の法則と戦い、私を、五体の内にある罪の法則のとりこにしているのです。 私はなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、誰が私を救ってくれるでしょうか。 私たちの主イエス・キリストを通して神に感謝します。このように、私自身は、心では神の律法に仕えていますが、肉では罪の法則に仕えているのです。

イエスは、たとえで彼らに話し始められた。「ある人がぶどう園を造り、垣を巡らし、搾り場を掘り、見張りのやぐらを建て、これを

イエスは、たとえで彼らに話し始められた。「ある人がぶどう園を造り、垣を巡らし、搾り場を掘り、見張りのやぐらを建て、これを農夫たちに貸して旅に出た。 収穫の時になったので、ぶどう園の収穫を受け取るために、僕を農夫たちのところへ送った。 ところが、農夫たちはこの僕を捕まえて袋叩きにし、何も持たせないで帰した。 そこでまた、他の僕を送ったが、農夫たちはその頭を殴り、侮辱した。 さらに、もう一人を送ったが、今度は殺した。そのほかに多くの僕を送ったが、ある者は殴られ、ある者は殺された。 その人には、まだ一人、愛する息子がいた。『私の息子なら敬ってくれるだろう』と言って、最後に息子を送った。 農夫たちは話し合った。『これは跡取りだ。さあ、殺してしまおう。そうすれば、財産はこちらのものだ。』 そして、息子を捕まえて殺し、ぶどう園の外に放り出した。 さて、ぶどう園の主人は、どうするだろうか。戻って来て、農夫たちを殺し、ぶどう園をほかの人たちに与えるに違いない。 聖書にこう書いてあるのを読んだことがないのか。 『家を建てる者の捨てた石 これが隅の親石となった。 これは、主がなさったことで 私たちの目には不思議なこと。』」

七日目になってその子は死んだ。家臣たちはその子の死をダビデに告げるのを恐れ、こう話し合った。「お子様がまだ生きておられた

七日目になってその子は死んだ。家臣たちはその子の死をダビデに告げるのを恐れ、こう話し合った。「お子様がまだ生きておられたときですら、王に何を申し上げても、私どもの声に耳を貸そうとはされなかった。お子様が亡くなったことをどうしてお知らせすることができようか。何かよくないことをなさりはしまいか。」 ダビデは家臣たちがささやき合っているのを見て、子どもの死を悟り、家臣たちに言った。「子どもは死んだのか。」彼らは言った。「亡くなられました。」 すると、ダビデは地から起き上がり、体を洗って香油を塗り、衣服を着替えて、主の家に入り、礼拝した。それから自分の家に帰り、料理の用意をさせ、食事をした。 家臣たちはダビデに言った。「どうして、このように振る舞われるのですか。お子様が生きておられるときは断食して嘆かれましたが、お子様が亡くなられると、起き上がって食事をなさいました。」 ダビデは言った。「子どもがまだ生きていたとき、私は断食して嘆き続けた。主が私を憐れみ、子どもを生かしてくださるかもしれないと思ったからだ。 しかし今、子どもは死んでしまった。私が断食したところで何の意味があろう。彼を呼び戻せるだろうか。私があの子のところへ行ったところで、あの子は私のところに戻っては来ない。」

数日の後、イエスが再びカファルナウムに来られると、家におられることが知れ渡った。

大勢の人が集まったので、戸口の辺りま

数日の後、イエスが再びカファルナウムに来られると、家におられることが知れ渡った。 大勢の人が集まったので、戸口の辺りまで全く隙間もないほどになった。イエスが御言葉を語っておられると、 四人の男が体の麻痺した人を担いで、イエスのところへ運んで来た。 しかし、大勢の人がいて、御もとに連れて行くことができなかったので、イエスがおられる辺りの屋根を剝がして穴を開け、病人が寝ている床をつり降ろした。 イエスは彼らの信仰を見て、その病人に、「子よ、あなたの罪は赦された」と言われた。 ところが、そこに律法学者が数人座っていて、心の中で考えた。 「この人は、なぜあんなことを言うのか。神を冒瀆している。罪を赦すことができるのは、神おひとりだ。」 イエスは、彼らが考えていることを、ご自分の霊ですぐに見抜いて、言われた。「なぜ、そんな考えを心に抱くのか。 この人に『あなたの罪は赦された』と言うのと、『起きて、床を担いで歩け』と言うのと、どちらが易しいか。 人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを知らせよう。」そして、体の麻痺した人に言われた。 「あなたに言う。起きて床を担ぎ、家に帰りなさい。」 すると、その人は起きて、すぐに床を担いで、皆の見ている前を出て行った。人々は皆驚嘆し、「このようなことは、今まで見たことがない」と言って、神を崇めた。

そこで、あなたは言うでしょう。「ではなぜ、神はなおも人を責められるのか。神の御心に誰が逆らうことができようか。」

ああ

そこで、あなたは言うでしょう。「ではなぜ、神はなおも人を責められるのか。神の御心に誰が逆らうことができようか。」 ああ、人よ。神に口答えするとは、あなたは何者か。造られたものが造った者に、「どうして私をこのように造ったのか」と言えるでしょうか。 陶工は、同じ粘土の塊から、一つを貴い器に、一つを卑しい器に作る権限があるのではないか。 神が怒りを示し、ご自分の力を知らせようとしておられたが、滅びることになっていた怒りの器を、大いなる寛容をもって耐え忍ばれたとすれば、どうでしょうか。 それも、栄光を与えようと準備しておられた憐れみの器に対して、ご自分の豊かな栄光を知らせてくださるためであったとすれば、どうでしょうか。 神は、私たちをこのような者として、ユダヤ人からだけでなく、異邦人からも召し出してくださいました。 ホセアの書でも、言われているとおりです。 「私はわが民ではない者をわが民と呼び 愛されなかった女を愛された女と呼ぶ。 『あなたがたはわが民ではない』 と彼らに言われたその場所で 彼らは『生ける神の子ら』と呼ばれる。」 また、イザヤはイスラエルについて、こう叫んでいます。 「たとえイスラエルの子らの数が 海の砂のようであっても 残りの者だけが救われる。 主は、御言葉を完全に、しかも速やかに 地上で成し遂げるからだ。」 また、イザヤがあらかじめ告げていたとおりです。 「もし万軍の主が 私たちに子孫を残されなかったなら 私たちはソドムのようになり ゴモラと同じようになったであろう。」

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