イエスは再び言われた。「私は世の光である。私に従う者は闇の中を歩まず、命の光を持つ。」

それで、ファリサイ派の人々が言

イエスは再び言われた。「私は世の光である。私に従う者は闇の中を歩まず、命の光を持つ。」 それで、ファリサイ派の人々が言った。「あなたは自分について証しをしている。その証しは真実ではない。」 イエスは答えて言われた。「たとえ私が自分について証しをするとしても、その証しは真実である。自分がどこから来たのか、そしてどこへ行くのか、私は知っているからだ。しかし、あなたがたは、私がどこから来てどこへ行くのか、知らない。 あなたがたは肉に従って裁くが、私は誰をも裁かない。 しかし、もし私が裁くとすれば、私の裁きは真実である。なぜなら私は独りではなく、私をお遣わしになった父と共にいるからである。 あなたがたの律法には、二人が行う証しは真実であると書いてある。 私は自分について証しをしており、私をお遣わしになった父も私について証しをしてくださる。」 彼らが「あなたの父はどこにいるのか」と言うと、イエスはお答えになった。「あなたがたは、私も私の父も知らない。もし、私を知っているなら、私の父をも知っているはずだ。」 イエスは神殿の境内で教えておられたとき、宝物殿の近くでこれらのことを話された。しかし、誰もイエスを捕らえなかった。イエスの時がまだ来ていなかったからである。

では、何と言うべきでしょうか。恵みが増すようにと、罪にとどまるべきだろうか。

決してそうではない。罪に対して死んだ私た

では、何と言うべきでしょうか。恵みが増すようにと、罪にとどまるべきだろうか。 決してそうではない。罪に対して死んだ私たちが、どうして、なおも罪の中に生きることができるでしょう。 それとも、あなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスにあずかる洗礼(バプテスマ)を受けた私たちは皆、キリストの死にあずかる洗礼(バプテスマ)を受けたのです。 私たちは、洗礼(バプテスマ)によってキリストと共に葬られ、その死にあずかる者となりました。それは、キリストが父の栄光によって死者の中から復活させられたように、私たちも新しい命に生きるためです。 私たちがキリストの死と同じ状態になったとすれば、復活についても同じ状態になるでしょう。 私たちの内の古い人がキリストと共に十字架につけられたのは、罪の体が無力にされて、私たちがもはや罪の奴隷にならないためであるということを、私たちは知っています。 死んだ者は罪から解放されているからです。 私たちは、キリストと共に死んだのなら、キリストと共に生きることにもなると信じます。 そして、死者の中から復活させられたキリストはもはや死ぬことがない、と知っています。死は、もはやキリストを支配しません。 キリストが死なれたのは、ただ一度罪に対して死なれたのであり、生きておられるのは、神に対して生きておられるのです。 このように、あなたがたも、自分は罪に対しては死んだ者であり、神に対してはキリスト・イエスにあって生きている者だと考えなさい。

さて、安息日が終わって、週の初めの日の明け方に、マグダラのマリアともう一人のマリアが、墓を見に行った。

すると、大きな

さて、安息日が終わって、週の初めの日の明け方に、マグダラのマリアともう一人のマリアが、墓を見に行った。 すると、大きな地震が起こった。主の天使が天から降って近寄り、石を転がして、その上に座ったからである。 その姿は稲妻のように輝き、衣は雪のように白かった。 見張りの者たちは、恐ろしさのあまり震え上がり、死人のようになった。 天使は女たちに言った。「恐れることはない。十字架につけられたイエスを捜しているのだろうが、 あの方は、ここにはおられない。かねて言われていたとおり、復活なさったのだ。さあ、遺体の置いてあった場所を見なさい。 それから、急いで行って弟子たちにこう告げなさい。『あの方は死者の中から復活された。そして、あなたがたより先にガリラヤに行かれる。そこでお目にかかれる。』あなたがたにこれを伝えます。」 女たちは、恐れながらも大喜びで、急いで墓を立ち去り、弟子たちに知らせるために走って行った。 すると、イエスが行く手に立っていて、「おはよう」と言われたので、女たちは近寄り、イエスの足を抱き、その前にひれ伏した。 イエスは言われた。「恐れることはない。行って、きょうだいたちにガリラヤへ行くように告げなさい。そこで私に会えるだろう。」

そこへ、アレクサンドロとルフォスとの父でシモンというキレネ人が、畑から帰って来て通りかかったので、兵士たちはこの人を徴用

そこへ、アレクサンドロとルフォスとの父でシモンというキレネ人が、畑から帰って来て通りかかったので、兵士たちはこの人を徴用し、イエスの十字架を担がせた。 そして、イエスをゴルゴタという所、訳せば「されこうべの場所」に連れて行った。 没薬を混ぜたぶどう酒を飲ませようとしたが、イエスはお受けにならなかった。 それから、兵士たちはイエスを十字架につけて、 誰が何を取るか、くじを引いて その衣を分け合った。 イエスを十字架につけたのは、午前九時であった。 罪状書きには、「ユダヤ人の王」と書いてあった。 また、イエスと一緒に二人の強盗を、一人は右にもう一人は左に、十字架につけた。✝ ★底本に節が欠けている箇所の異本による訳文 こうして、「その人は犯罪人の一人に数えられた」という聖書の言葉が実現した。 そこを通りかかった人々は、頭を振りながらイエスを罵って言った。「おやおや、神殿を壊し、三日で建てる者、 十字架から降りて自分を救ってみろ。」 同じように、祭司長たちも律法学者たちと一緒になって、代わる代わるイエスを侮辱して言った。「他人は救ったのに、自分は救えない。 メシア、イスラエルの王、今すぐ十字架から降りるがいい。それを見たら、信じてやろう。」一緒に十字架につけられた者たちも、イエスを罵った。 昼の十二時になると、全地は暗くなり、三時に及んだ。 三時にイエスは大声で叫ばれた。「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ。」これは、「わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか」という意味である。 そばに立っていた何人かが、これを聞いて、「そら、エリヤを呼んでいる」と言った。 ある者が走り寄り、海綿に酢を含ませて葦の棒に付けてイエスに飲ませ、「待て、エリヤが彼を降ろしに来るかどうか、見ていよう」と言った。 しかし、イエスは大声を出して息を引き取られた。 すると、神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂けた。 イエスに向かって立っていた百人隊長は、このように息を引き取られたのを見て、「まことに、この人は神の子だった」と言った。 また、女たちも遠くから見守っていた。その中には、マグダラのマリア、小ヤコブとヨセの母マリア、そしてサロメがいた。 この女たちは、イエスがガリラヤにおられたとき、その後に従い、仕えていた人々である。このほかにも、イエスと共にエルサレムへ上って来た女たちが大勢いた。

イエスはこのように話してから、先に立って進み、エルサレムに上って行かれた。

そして、「オリーブ畑」と呼ばれる山に面した

イエスはこのように話してから、先に立って進み、エルサレムに上って行かれた。 そして、「オリーブ畑」と呼ばれる山に面したベトファゲとベタニアに近づいたとき、二人の弟子を使いに出そうとして、 言われた。「向こうの村へ行きなさい。そこに入ると、まだ誰も乗ったことのない子ろばのつないであるのが見つかる。それをほどいて、引いて来なさい。 もし、誰かが、『なぜほどくのか』と尋ねたら、『主がお入り用なのです』と言いなさい。」 使いに出された者たちが出かけて行くと、言われたとおりであった。 子ろばをほどいていると、その持ち主たちが、「なぜ、子ろばをほどくのか」と言った。 二人は、「主がお入り用なのです」と言った。 そして、子ろばをイエスのところに引いて来て、その上に自分の上着を掛け、イエスをお乗せした。 イエスが進んで行かれると、人々は自分の上着を道に敷いた。 いよいよオリーブ山の坂にさしかかられたとき、弟子の群れは皆喜んで、自分の見たあらゆる御力のことで、声高らかに神を賛美し始めた。 「主の名によって来られる王に 祝福があるように。 天には平和 いと高き所には栄光があるように。」 すると、ファリサイ派のある人々が、群衆の中からイエスに向かって、「先生、お弟子たちを叱ってください」と言った。 イエスはお答えになった。「言っておくが、もしこの人たちが黙れば、石が叫ぶだろう。」

それでは、善いものが私に死をもたらすものとなったのでしょうか。決してそうではない。罪は罪として現れるために、善いものによ

それでは、善いものが私に死をもたらすものとなったのでしょうか。決してそうではない。罪は罪として現れるために、善いものによって私に死をもたらしました。こうして、罪は戒めによってますます罪深いものとなりました。 私たちは、律法が霊的なものであると知っています。しかし、私は肉の人であって、罪の下に売られています。 私は、自分のしていることが分かりません。自分が望むことを行わず、かえって憎んでいることをしているからです。 もし、望まないことをしているとすれば、律法を善いものとして認めているわけです。 ですから、それを行っているのは、もはや私ではなく、私の中に住んでいる罪なのです。 私は、自分の内には、つまり私の肉には、善が住んでいないことを知っています。善をなそうという意志はあっても、実際には行わないからです。 私は自分の望む善は行わず、望まない悪を行っています。 自分が望まないことをしているとすれば、それをしているのは、もはや私ではなく、私の中に住んでいる罪なのです。 それで、善をなそうと思う自分に、いつも悪が存在するという法則に気付きます。 内なる人としては神の律法を喜んでいますが、 私の五体には異なる法則があって、心の法則と戦い、私を、五体の内にある罪の法則のとりこにしているのです。 私はなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、誰が私を救ってくれるでしょうか。 私たちの主イエス・キリストを通して神に感謝します。このように、私自身は、心では神の律法に仕えていますが、肉では罪の法則に仕えているのです。

38 39 40 41 42